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貴重資料展示室

第06回常設展示:1993年6月28日〜1993年11月12日
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江戸時代の天文台

貞享の改暦の功績により天文方に任じられた渋川春海は、元禄二年十一月二十二日(1690年1月2日)に本所二つ目先の土地を拝領し天文台を築いた。しかし、これは低地にあったため、元禄十六年(1703)には幕府に願いでて駿河台の地を拝領し、天文台を移した。

幕府は延享四年(1747)、宝暦の改暦の際に神田佐久間町に天文台を置いたが、10年程で改暦が終わると撤去された。ついで明和二年(1765)宝暦暦修正のため、牛込 (現在の新宿区袋町日本出版クラブ付近) に天文台が建てられた。こちらは修暦完了後も存続したが、木立が茂って観測ができなくなり天明二年(1782)に浅草片町裏に移転した。これが浅草天文台である。

この浅草天文台は葛飾北斎の富嶽百景の一つ、「浅草鳥越の図」に描かれていて有名である。この浅草天文台で、西洋天文学を採り入れた「寛政暦法」高橋至時(たかはしよしとき)らによって作られた。当時の地図には「頒暦所御用ヤシキ」と記されている。その後、浅草天文台は幕府崩壊まで存続し、そこで使われていた機器類は開成学校 (東京大学の前身) に引き継がれたという。

一方、天保の改暦の主務者であった渋川景佑は、自邸内の小石川三百坂下のほか、天保十三年には渋川家専用の九段坂測量所を持ち、観測を行なった。『霊憲候簿(れいけんこうぼ)』99冊にその一端がうかがえる。ちなみに九段坂測量所があった所は都営新宿線の九段下駅近くで、靖国通りを挟んで斜め向かいには蕃書調所の跡がある。

寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊

巻十九から測量台の図を示す。

寛政暦書・測量台の図

『富嶽百景』 葛飾北斎画 浅草鳥越の図 (千葉市美術館所蔵)

浅草鳥越の図

浅草鳥越堀田原図(あさくさとりごえほったはらず)

頒暦所御用ヤシキ
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