暦Wiki
貞享の改暦†
- 渋川春海 (安井算哲) は幕府の碁方4家(本因坊、井上、林、安井)の1つである安井家の長男として寛永十六年(1639)に誕生しました。
- 幼いころより1をもって10を知る神童、碁も父から習い妙手絶倫、父をも凌ぐ実力だったそうです。
- 父算哲の死後自らも算哲を名乗り、秋冬には江戸で碁所に勤めながら、春夏には京都においてさまざまな学問を究めていきました。
- 山崎闇斎から神道や儒学を
- 陰陽頭の安倍泰福(土御門泰福)から神道や兵法を
- 岡野井玄貞や松田順承から天文学や暦学を学ぶなど
- 春海を招いて教えを請う者も多く、そのなかには水戸の徳川光圀や会津藩主の保科正之といった面々も含まれ、そうした人脈の後ろ楯がのちの改暦成功への足がかりとなります。
- 萬治二年(1659)には西国の旅に出かけ、各地で太陽の作る影の長さを測り、場所による時差や食分の違いについて考察、わが国で始めて北極出地度数=緯度を測定しています。
- 寛文七年(1667)には保科正之の招きで数か月会津に滞在、暦学について談じています。
- 当時は中国で作られた宣明暦にもとづいた暦が使われていました。
- 本家中国では71年ほどで改暦されていますが、遣唐使の廃止や相次ぐ戦乱により、わが国では貞観四年(862)から800年近くにわたって使われ続けていました。
- 江戸幕府が成立して平和な時代が到来、学問を奨励するようになると、暦と天象のずれに関心が向かうようになり、新しい暦法、特に中国暦法の最高峰とも言われる授時暦の研究が盛んに行なわれるようになっていました。
- 寛文十二年十二月は宣明暦によれば月食となっていましたが、実際には食が起こりませんでした*1。
- このときはひそかに改暦の話が持ち上がるものの、直後に保科正之が死去し実現には至っていません。
- 代わりに正之は春海に改暦をやらせるよう稲葉美濃守正則に対して遺言を残しています*2。
- そして、延宝元年(1673)、春海は授時暦による改暦を上表しました。
- この際、その後3年間にわたる日月食について宣明暦・授時暦・大統暦で推算した一覧をつけていました。
- ところが、最後の延宝三年五月の日食は授時暦で食なし宣明暦で食ありのところ、実際には日食が起こり、かえって宣明暦のほうが正しいという結果になってしまいました*4。
- 延宝三年五月金環日食(1675年6月23日)食分0.136@京都
- 観測にはおそらくピンホールを利用したと思われます。のちに書かれた貞享暦儀 (p.65)でも「日食の食分は測りがたい。紙に穴をあけて光を通すと円形の光が現れる。欠ける個所は実際と逆になるが、食分は変わらないので、観測が容易になる。」と述べています。
- このため、酒井雅楽頭(大老 酒井忠清)に「算哲が申分、合もあり、不合もあり」*5といわれ、改暦は頓挫します。
- 授時暦にも欠点があることを知った春海は、その改良に乗り出し、ついに独自の大和暦を完成させます。
- 天和三年(1683)十一月、春海は大和暦による改暦を上表、おりしも暦に記載された月食がおこらず*7、泰福が改暦の任につきました。
- 春海も急遽議論に加わり自らの大和暦を推したものの、中国の暦を採用すべしとの意見が根強く、貞享元年(1684)三月、大統暦の採用が決定してしまいます。
- 春海は三度上表して、場所によって天文現象には違いがあり中国の暦をそのまま使うことはできない、大統暦は授時暦から消長法を省いたものでむしろ劣っているなどの問題点を指摘する一方、泰福とともに京都の梅小路にて影の長さの測定、月や惑星の観測をして大和暦の正確さを立証しました。
- その結果、十月二十九日、大和暦は貞享暦という名を賜り、翌貞享二年(1685)から使われることが宣下されました。暦は通常十一月一日から販売されることになっていましたから、土壇場での大逆転劇といえます。
天文方を中心とする体制へ†
- 十一月二十八日、改暦を成功させた春海は江戸に戻って暦を将軍徳川綱吉に献上、十二月にはその功績により碁所をやめて司天官(天文方)に任じられることになりました。
- これにより、天文方を中心とした新たな編暦体制が確立します。
- 天文方が暦を編纂
- 賀茂家(幸徳井家)が暦注をつけ天文方が確認
- 幸徳井家から大経師に送られて彫版印刷
- 天文方の校閲を経て地方奉行や京都所司代などを介して諸国の暦師に配布
- 暦師は版行できしだい天文方に送って校合
- 以後、遠く離れた薩摩藩を例外として、地方で独自の暦を作ることは禁止されました。
- 改暦を成功させた要因
- 暦の正確さ:天体観測や過去の日月食の分析により、その暦の正確さを実証しました。
- あきらめない態度:授時暦導入の失敗にもめげず、その原因を探って暦を改善させました。
- 人脈:碁方や神道などを通じて幕府・朝廷双方の有力者と交流があり、強力な後ろ盾を得られました。
- 時代背景:戦国の世から平和な時代へ移り、学問が盛んに行なわれるようになっていました。
- 幕府のメリット
- 暦には観象授時や受命改制といった概念があり、政治の支配者が幕府であることを庶民に知らしめる効果があります。
- 経済活動の活発化のためにも暦の内容が統一されていることは必要です。
- 土御門家のメリット
- 土御門家に対しても全国の陰陽師を統括する権利を与えました。
- 陰陽頭である泰福を「千古に踰ゆ」と称え、春海はあくまで天文生として教えを請う立場という形式を貫きました。
- このように、朝廷をたてることを忘れなかった点は、後の西川正休と対比されます。
関連ページ†
Last-modified: 2023-11-20 (月) 16:22:41