暦Wiki
5. 渋川景佑と天保暦†
高橋景保とシーボルト事件†
- 至時の死後、長男の景保が20歳で天文方を継ぎ、後見人として間重富がついてラランデ暦書の翻訳を続行することになりました。
- 伊能忠敬の上司として全国測量事業を完成に導きます。
- 文化四年(1807)に地誌御用を設立、文化六年(1809)には万国全図=世界地図を制作しています。
- 語学にも堪能で、文化八年(1811)には蛮書和解御用という洋書翻訳組織を設立しました。これはさまざまな変遷を経て東京大学へとつながります。
- このように景保は多彩な才能を持ち、政治的手腕も大いに発揮しました。
- ところが、長崎のオランダ商館医師シーボルトとの出会いが運命を一変させます。
- 景保はシーボルトからクルーゼンシュテルンの世界周航記などを受け取る代わりに伊能忠敬の日本地図の縮図を渡してしまいました。
- 日本地図の国外持ち出しは御法度であり、文政十一年(1828)、景保は捕縛投獄され、翌十二年失意のうちに牢死(死後に死罪が確定)します。これが世に言うシーボルト事件です。
- 一方のシーボルトは忠敬の地図などを没収され国外追放されたものの、事前に写し取っておいた地図を持ち帰り、著書『日本』のなかで紹介しました。
天保の改暦†
- 景保の後を任されたのは、至時の次男で渋川家を継いだ渋川景佑でした。
- 景佑は足立信頭らの助力を得つつ父至時の遺業を継ぎ、ラランデ暦書に基づく新巧暦書、惑星に楕円軌道を用いる新修五星法(寛政暦五星法続録)を完成させ、天保七年(1836)、幕府に献上しています。
- 寛政暦書 巻一によれば、惑星の楕円軌道については天保九年(1838)に導入されているようです。
- 天保十年八月金環日食 (1839年09月08日)
- 江戸で金環日食が見られました。2012年金環日食の際に、前回東京23区内で見られた金環日食といわれていたものです。
- 寛政暦では食の最大は日の出前、新巧暦書による計算では食の最大は日の出後という予報になりました。
- 景佑は息子の敬直を築地海岸に派遣しつつ、自らも小石川三百坂下の自宅で観測、日の出後に食の最大となることを確かめました (寛政暦書、霊憲候簿)。
- 天保暦(天保壬寅元暦)の誕生
- 天保十二年十二月、幕府より新巧暦書による改暦の命が下ると、翌十三年八月には山路諧孝らによる西暦新編も参考にしつつ景佑と信頭は新法暦書9冊を編纂します。
- それを土御門晴親が校閲、九月に献上、十月六日に改暦宣言、ここにわが国最後の太陰太陽暦法である天保暦が誕生、天保十五年(弘化元年)より使用されることになりました。
- 当時、清で使われていた時憲暦は暦象考成、すなわち宣教師の力で西洋天文学を導入した暦書に頼っているわけですから、ラランデ暦書から直接日本人の力で西洋天文学を学び取って作られた暦である天保暦はついに中国暦の水準を凌駕したといえるでしょう。
- 他にも、二十四節気に定気法を採用したことや、時刻の表記に実生活で使われていた不定時法を採用したことなどが特徴として挙げられます。
- さらに景佑は、寛政暦書、霊憲候簿、萬国普通暦などさまざまな著作を残すとともに、天文方代々記や星学手簡など、断片的な記録も整理保存し、後世に残してくれています。
関連ページ†
Last-modified: 2019-02-27 (水) 14:49:18