正確な日本地図は伊能忠敬 (1745-1818) の長年の実測によって完成された。この地図はシーボルトの『日本』に紹介され、ヨーロッパの人々を驚かせた。
伊能忠敬は、江戸幕府天文方で寛政の改暦を主導した
代わりに明治初期まで長く使われていたのは「
伊能忠敬の測量値が沿海・街道・湖沼・島ごとに詳しく書かれており、文政四年(1821)の伊能忠敬の序、同じ文政四年の高橋景保の序がある。景保の序によると『大日本沿海實測全図』は大図が30幅、中図2幅、小図1幅、附録14巻で構成されている。附録にあたるこの本には、地図作成に使われた土地土地の里程、極高度 (緯度) の値が記されている。
この本は明治になって出版され、大学南校 (東京大学の前身) の罫が使用されている。なお、国立天文台所蔵本は14巻のうち、巻三と巻十一が欠けている。
日本各地の極高 (緯度)・京師 (京都) にあった改暦所を基準とする経度・日本橋からの里程がまとめられている。北は宗谷から鹿児島種子島、八丈島、隠岐。江戸の場所はその頃天文台が置かれていた浅草の測量所 (浅草天文台) と伊能忠敬が住んでいた深川黒江町の場所が示されている。浅草測量所の極高が三十度・・・となっているのは写し違いかもしれない。その他、沿海周廻里程、郡・村・島等のかわった名が記されている。この『地勢提要』は伊能忠敬の測量による数値であることを、後書きで高橋景保が述べている。
この地図は長久保赤水自身が観測や測量をして作った地図ではなく、渋川春海の緯度測定値などさまざまな資料を比較検討し、赤水自身が踏査した結果も加味して作図したものだという。地図は、松前南部 (北海道南部) から薩南鬼界島 (鹿児島県の奄美群島にある喜界島か)、八丈島におよび、街道、城下、宿場、寺社、山岳、河川、湊、島などが記載されている。