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地動説 (Heliocentrism)†
- 地球を含め、すべての惑星が太陽の周りを回っているとする考え方を地動説といいます。
- 英語ではheliocentrism、すなわち太陽中心説です。
- これに対し、地球は宇宙の中心に静止していて、すべての天体が地球の周りを回っているとする考え方を天動説といいます。
- 地動説は1543年、ニコラウス・コペルニクスにより唱えられました。
- ただし、コペルニクスの地動説は円運動であり、周転円を用いた天動説よりも予測精度が低く、実用的ではありませんでした。
- 一方で地球が動くという考え方はキリスト教の教義に反するとされ、ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられたり、ガリレオ・ガリレイが異端審問で有罪となったりする事件も起きました。
- その後、17世紀にはケプラーの法則やニュートンの運動の法則・万有引力の法則により地動説は広く認められ、18世紀には光行差が発見されて確かなものになりました。
- 16世紀の天文学者ティコ・ブラーエが地動説を支持しない理由とされた年周視差の発見はさらに遅く、19世紀のことです。
日本への伝播†
- 地動説が日本に伝来したのは寛政の改暦前後のことです。そのころ天文方では中国の暦書を通じて西洋天文学を採り入れていたこともあり、最初に地動説を紹介したのは蘭書の翻訳をしていた長崎のオランダ通詞たちでした。
- 本木良永は和蘭地球図説(安永元年(1772))の一節や天地二球用法(安永三年(1774))の序文で地動説について簡単に触れた後、星術本源太陽窮理了解新制天地二球用法記(寛政四年(1792)ごろ)において詳しく地動説を紹介しています。
- 志筑忠雄も暦象新書(寛政十年(1798)ほか)において地動説を紹介しています。職務として翻訳を行なった本木に対し、志筑は通詞の職を辞しており、単なる翻訳ではなく自身の見解も交えて述べているのが特徴です。
- その後、本木の書を読んだ司馬江漢の和蘭天説(寛政七年(1795))をはじめ、山片蟠桃や三浦梅園らが自著で地動説に言及したことにより、地動説は次第に広まっていきました。
- さらに、文政六年(1823)には吉雄俊蔵の遠西観象図説といった西洋天文学の講義録も刊行されました。
- 天文方を経由しない翻訳だったこともあり、用語の混乱が多数見られます。
- 刻白爾をコペルニクスと勘違いするケース
- 惑星や衛星
関連ページ†
Last-modified: 2018-11-08 (木) 21:38:29