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貴重資料展示室

第16回常設展示:1996年10月19日〜1997年5月1日
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江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

一般公開日の共通テーマに倣って「宇宙のはて」としたが、ここでいう「宇宙」は今でいう「太陽系」の世界である。「太陽系」と呼ぶ以上は、地球を含むすべての惑星が太陽の周りを回るというコペルニクスの「地動説」は自明であろう。しかし、日本の江戸時代は、西洋においては「天動説」から「地動説」への転換期であり、両者の影響が見られる。

八代将軍徳川吉宗 (在位 1716-1745) は西洋天文学による改暦を意図したが、残念ながらその死去により実現せず、それは寛政十年(1798)施行の寛政暦法 (太陰太陽暦) まで待たねばならなかった。この寛政暦は、新しく天文方に任命された高橋至時 (1764-1804) を中心に、『暦象考成 後編』などを参照して作られた暦法である。同じころ、天文方の山路才助(徳風)は『崇禎暦書(すうていれきしょ)』にもとづく暦を試作していた。『崇禎暦書』と『暦象考成 後編』は、いづれも西洋天文学を採り入れた時憲暦の基礎をなす中国の暦書である。前者は周天円理論、後者は太陽・月限定にせよ楕円運動理論にもとづくという違いはあるが、ともに天動説と地動説を折衷したような「ティコ・ブラーエの体系」を採用している。

一方、すでに長崎では、オランダから新しい西洋の学問が入ってきており、それらには地動説を自明とした天文学が描かれていた。じつは地動説を日本にもたらすことになったのは天文方ではなく、その翻訳にあたった長崎の通詞 (通訳) 達だったのである。

太陽窮理了解説(たいようきゅうりりょうかいせつ)』 本木良永著 寛政四年(1792)

作者の本木良永 (1735-1794) は長崎の通詞。英ジョージ・アダムスの書の蘭訳版を和訳した本。コペルニクスの地動説にもとづき、太陽を中心に水星・金星・地球・火星・木星・土星がまわる太陽系(太陽窮理)の姿が描かれている。また、地球の近くには月(太陰)、木星・土星の近くには衛星(小惑星(コマドイホシ))、さらに彗星も見られる。まだ天王星の姿はなく、土星の外側には恒星が描かれている。なお、天王星の発見は1781年、海王星の発見は1846年、冥王星の発見は1930年のこと。

太陽窮理了解説1 太陽窮理了解説2 太陽窮理了解説3

寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊

『寛政暦書』は寛政暦の暦理を表した本だが、出来上がったのは寛政暦施行から約45年後の天保十五年(1844)であった。太陽・月の運動に楕円運動を採り入れるなど、新しい理論にもとづいた暦法であったが、巻頭に示された「天象」の図は天動説と地動説を折衷したような「ティコ・ブラーエの体系」となっている。

寛政暦書1 寛政暦書2 寛政暦書3 寛政暦書4 寛政暦書5

崇禎暦書暦引(すうていれきしょれきいん) 図編』 渋川景佑編 安政二年(1855)

崇禎暦書暦引図編1 崇禎暦書暦引図編2 崇禎暦書暦引図編3 崇禎暦書暦引図編4

この本は『崇禎暦書』の要点をまとめた『崇禎暦書暦引』を学ぶ際の一助として、渋川景佑が『崇禎暦書』などの書籍から図を集めたものである。歌白泥天体古図は、歌白泥すなわちコペルニクスとはあるものの、地球を中心に、月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星、二十八宿天 (恒星)、東西歳差・南北歳差、日周運動を担う宗動天、静止した天からなっており、明らかに天動説に属するものである。この誤りは『崇禎暦書 (五緯暦指)』の記述に端を発するが、地動説はキリスト教の教義に反するとされており、イエズス会宣教師たちが詳しく説明しなかった等の事情もあろう。

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