1610年、ガリレオ・ガリレイ (1564-1642) は自作の望遠鏡を覗いて木星の衛星を発見し、その他いくつかの知見をもとに、地動説を唱えた。地動説はそもそもニコラウス・コペルニクス (1473-1543) が、『天体の回転について』(1543) という書物の中で論じたものが最初であるが、当初はほとんど受け入れられず、ガリレオの発見とヨハネス・ケプラー (1571-1630) による惑星の楕円運動の解明によって、次第に広まるようになった。しかし地球が動くという考えは聖書の記述に反するという理由で、ガリレオは異端審問を受けることになった。
一方、日本では、望遠鏡の伝来は慶長十八年(1613)と早かったが、それを用いて天体を観測することは江戸中期になるまでなかった。西洋天文学が流入する以前の日本では、中国起源の「
日本における天文学とは主として暦を作るためのものであり、暦算天文学と呼ばれることもある。暦の計算にあたっては、軌道の中心が太陽であろうと地球であろうとさしたる違いはなく、日本において地動説が大きな問題とされることはなかった。
16世紀なかば、日本でイエズス会による布教が始まると、それにともない西洋天文学も伝えられたが、当時は西洋においてもいまだプトレマイオスの天動説が信じられていた。
沢野忠庵は日本に帰化した元ポルトガル人宣教師である。本書が書かれたのは江戸時代になってからだが、その内容はスペイン人イエズス会士ペドロ・ゴメス (1535-1600) 著の『天球論』(1595) を下敷きにしているとみられる。ここで描かれている宇宙は中心に地球が存在し、その周辺に月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回り、さらに外側に星々を載せた列宿天、歳差を担う第九天、日周運動を担う宗動天が存在するという構成になっている。
『天経或問』は、江戸中期、中国から輸入された天文学、地理・気象などが書かれた書物。中国古来の天文に、イエズス会宣教師のもたらした西洋天文学の知識が加えられている。しかし、イエズス会宣教師たちは異端とされていた地動説に触れることはほとんどなく、本書でも『崇禎暦書』などと同様に、天動説と地動説を折衷したようなティコ・ブラーエ (1546-1601) の宇宙観が紹介されている。一方、本書が中国で刊行された1675年ごろには、西洋ではすでに地動説が主流となりつつあった。
日本では1630年代より鎖国が始まり、キリスト教に関する書物の輸入が制限されていたが、享保五年(1720)に八代将軍徳川吉宗によって禁書令がゆるめられると、西川正休 (1693-1756) により訓点のつけられたものが刊行され、一躍ベストセラーとなった。
中国では日本と異なり、キリスト教宣教師の伝える西洋天文学が早く公的に受け入れられて、西洋式の計算法を用いた時憲暦が作られた。しかし、そのためかえって地動説の導入は遅れた。
本書に先立つ『暦象考成 上下編』(雍正元年(1723)) では天体の運動を周天円で説明するティコの体系が採用されていたが、後編になるとそこに、太陽・月の運動についてのみ、ケプラーの楕円運動説を採り入れた。
日本では寛政の改暦 (寛政九年(1797)) の際に研究され、寛政暦には太陽・月の楕円運動が導入された。しかしながら惑星については上下編の周天円を用いた。
本木良永 (1735-1794) は長崎の通詞の職にあり、蘭語に通じていた。中国を介さず、直接蘭書から知識を得られる立場にあったため、日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介することになった。『太陽窮理了解説』は英ジョージ・アダムスの天文書 (英語版 1766、蘭語版 1770) を和訳したもので、ここでは地動説はすでに自明のものとして採り入れられている。また惑星の運動についてもケプラーの楕円運動論にもとづいている。
同じく長崎通詞出身で、本木良永の弟子でもあった志筑忠雄 (1760-1806) は、英ジョン・キール (1671-1721) の著作 (ラテン語版 1725、蘭語版 "Inleidinge tot de waare Natuur-en Sterrekunde" 1741) を翻訳し、『暦象新書』(1798-1802) を書いた。あくまで観念的な理解にとどまった本木に対して、志筑はニュートン力学を解したうえで地動説を論じている。ちなみに地動説という言葉を造ったのは志筑忠雄とされている。
享和三年(1803)、
本書は後に天保の改暦 (天保十三年(1842)) の礎となったが、これは中国の暦書に倣うのではなく、蘭書をもとにした初めての改暦であり、また江戸時代最後の改暦となった。
参考文献:
『明治前日本天文学史 新訂復刻版』 日本学士院編 野間科学医学研究資料館
『近世日本天文学史』 渡邊敏夫著 恒星社厚生閣
『日本の天文学:占い・暦・宇宙観』 中山茂著 朝日新聞社