暦Wiki
十三夜†
- 中秋の名月 (十五夜) に並ぶ名月として、古くから太陰太陽暦九月十三日には月見が行なわれてきました。
- 十三夜、中秋の名月=前の月に対して後の月、中秋の名月とあわせて二夜の月、栗名月、豆名月などとも呼ばれます。
- この風習は日本独自のもので、延喜十九年九月十三日 (ユリウス暦で919年10月9日)、寛平法皇が催した月見の宴に端を発するそうです (国立国会図書館 )。
なぜ9月は十五夜でなく十三夜なのか?†
- 満月には幅がありますが、十三夜が満月になることはありません。では、十五夜でなく十三夜を祝うのはなぜなのでしょうか?
- これついて明確な理由を述べたものがないためか、古くからさまざまな俗説が唱えられてきました。
- 詳しくは古今要覧稿 (国立国会図書館 ) にまとめられていますが、延喜十九年に月見の宴があり、そこで詩を楽しんだこと (躬恒集)、寛平法皇が「今夜明月無雙」と発言したこと (中右記, 国立国会図書館 ) くらいしかわかりません。
- 徒然草「八月十五日、九月十三日は、婁宿也、此宿清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす」
- 婁宿とは二十八宿のひとつ。満月は太陽と反対の方向に位置しますから、中秋の名月≒秋分ごろの満月は春分点の付近にいることになります。また、月の公転周期は満ち欠けの周期よりも2日ほど短いですから、陰暦九月十三日の月の位置は陰暦八月十五日の月の位置とほぼ同じでやはり春分点付近です。では、婁宿は春分点付近なのかといえば、歳差を考えれば今から2000年ほど前には春分点付近にありましたが、十三夜が鑑賞されるようになった延喜十九年には既に奎宿の方が春分点に近くなっており、合致しません。
- そもそも十五夜は秋分の±15日にわたるのでひとつの宿に収まるはずがありません。十三夜にしても同じことです。実際、延喜十九年の十三夜は壁宿のあたりに月がありました。ただし、徒然草が書かれたとされる元徳二年の十三夜 (ユリウス暦で1330年10月25日) は、たまたま婁宿のあたり≒黄経15度あたり≒清明のあたりに月がいたのでそのような誤解をしたとも考えられます。
- 一方、徒然草が書かれた当時の暦=宣明暦では二十七宿で暦注を配当していたので八月十五日、九月十三日は必ず婁宿にあたります。徒然草の断定的な物言いはここから来るのでしょう。しかし、貞享暦で二十八宿を採用してこの関係が崩れたこともあり、江戸時代からすでに信用できない説とされてしまいました。
- ほかにも、本朝無題詩の藤原忠通の漢詩を起源とする説、九月十五日に詠んだ菅原道真の漢詩で後の人が五を三と間違えたとする説、先帝の御國忌=命日があったので月見をずらしたとする説、九月十三夜を祝ったら後朱雀天皇が即位できたからとする説など、さまざまな俗説があります (国立国会図書館「古今要覧稿」 、国立国会図書館「俳諧歳時記」 )。
関連ページ†
Last-modified: 2016-09-08 (木) 13:06:56