日本では1200年以上、太陰太陽暦を改良しながら使っていた。太陰太陽暦には29日の「小の月」と30日の「大の月」、さらには「閏月」があり、各月の日数や一年の日数はその年の暦を見るまでわからなかった。
古くは中国から採り入れた暦法で、朝廷によって具注暦が作られ、書き写されて宮中や地方の役所などに配られた。具注暦は漢字のみで書かれた暦で、平安時代に仮名が使われるようになると、仮名で書き写された仮名暦があらわれた。やがて印刷技術が発達すると暦は出版され、民間にも普及していった。
江戸幕府天文方の成立後は、暦の出版・販売には幕府の認可が必要となり内容は統一されたが、体裁は折暦・綴暦・巻暦などさまざまであった。ほかにも生活に必要な部分を抜き出した略暦である、柱暦・絵暦・大小暦など一枚刷りの暦も現れ、人々の暮らしの中で使われた。
実物はひと月毎に折ってある折暦の体裁で、上部の二本線の交差した所にあるのが大の月、下の線にあるのが小の月となっている。朱記は後世研究者が注をいれたものである。
他の地方の暦が代々の暦師などによって作られていたのと違い、江戸暦は江戸市中で暦問屋の株を持った者によって版行された暦である。図のように、柱暦・綴暦・折暦などさまざまな体裁のものがある。貞享の改暦以降は、地方の暦も薩摩暦を除き、幕府天文方の作る官暦を元に作られた。
略暦にはその年の干支、一年の日数と月の大小、日食・月食、雑節などと暦注が書かれている。暦注は日時や方角に対して、吉凶禍福、禁忌などを関連付ける迷信的な記事である。多くは暦法と共に中国から伝来したもので、陰陽五行説にもとづき、太陽、月と五星の運行が、農耕、豊凶などに影響を与えると考えた。のちに、「彼岸」など日本独自のものも加えられている。
秋田暦は横手の浅野数馬という者が作った小型の綴暦で、幕末から明治初年にかけてのものが知られている。暦は農作業にも必要なものであるが、東北地方北部には伊勢暦や会津暦が充分に行き渡らなかったために出されたようである。作られた期間が短いため、残っている暦も少ない。
盛岡暦は田山暦とともに南部絵暦とも言われ、文化年間(1804-1818)から、明治政府が許可を得ない者の暦の出版を禁じた明治三年(1870)まで作られた。その後明治17年(1884)に再興された。
これは明治26年(1893)の暦で欄外に「旧暦の月日なり」と注意書きがある。絵ときは、眼と
月頭暦はその年の日数、各月の大小、朔日の干支と暦注をのせた暦で、金沢で出版された柱暦である。「つきがしらごよみ」と呼ばれることもある。
この朏暦は、仙台藩の高橋淵黙が作った、安政七年(1860)の暦で、月頭暦とは違い、毎月三日の干支と
三日月は新月の後に見られる初めての月であり、そこから遡って新月の位置を推定していた。ここから新月を朔、一日のことを朔日と呼ぶ。また、月が立つところから「ついたち」とも呼ばれる。
仙台暦と言われるものはこの朏暦とは別で、延宝四年(1676)から出されていたが、貞享の改暦(1684)以降も幕府の許可を得ていなかったため、江戸の暦問屋の訴えによって正徳五年(1715)に禁止され、その後は江戸暦が売られるようになった。安政元年(1854)に仙台藩から願い出て、綴暦の体裁で幕府公認の暦が出版された。
参考文献:
『日本の暦』 岡田芳朗著 新人物往来社
『日本の暦』 渡邊敏夫著 雄山閣
『暦と時の事典』 内田正男著 雄山閣